地域・歴史・史跡特集
姉川の戦い


我が釣りフィールドとしている伊吹山を水源としている姉川。

その周辺には、数多き歴史が眠っている訳ですが、その代表として、姉川の戦いがあります。

姉川の戦いと云えば、織田、徳川連合軍と浅井、朝倉連合軍との戦いで、織田信長の戦いとして有名ですので、今回は織田信長を主体に御紹介致します。

泳禄3年(1560年)、尾張織田家統一を果した信長は、上洛進軍してきた今川義元2万(4万とも云われる)を総勢5千足らずの軍勢で、桶狭間奇襲戦で打ち破る。

その後、今川方から離反した徳川家康(当時、松平元康)と同盟を結び、駿河からの脅威が無くすと、斉藤道三亡き後、敵対関係になってしまった美濃攻略を開始する。

(斉藤道三と義龍との父子の争いで、道三死す・・・ 舅信長に、美濃譲り状を遺言として、残す事から、信長は美濃攻略の大義名分を得る事となった)

其れに先立ち、北近江の大名浅井長政へ、妹お市と婚姻させて同盟を結び、美濃を牽制する・・・

当時、美濃は商、農も栄え、豊富な財源をもたらし、兵力、武器等あらゆる面で、他国を圧倒・・・

美濃を制する者は、天下を掌握するとまで云われる程、更に、中枢である稲葉山城(現在は岐阜城)は、長良川の横に聳える山城で、川、山は天然の要塞で、難攻不落の城と呼ばれた・・・

何度も戦いに挑むも、義龍の反撃に屈する事となる・・・

そんな時、義龍急死する事により、その子龍興が次ぐ事となる。

泳禄10年(1567年)美濃に内紛勃発、信長方への寝返りもあって、急速に国力が低下、遂に、織田信長は美濃を攻略に成功。

信長は、美濃を岐阜と改め、天下布武を旗印に、天下統一を目指し始めたのだった・・・

其の頃、京では13代将軍足利義輝が、松永久通、三好三人衆に暗殺され、14代将軍は義栄となったそうな。

同盟国浅井氏と連合軍で、南近江を支配していた六角義賢と観音寺城の戦いに勝利して、足利義昭を奉じて、京へ上洛を果たした。

松永久秀、久通、三好三人衆は直ちに降伏した。

此れは、信長、義昭の陰謀くさいが、義栄が急死し、15代将軍には義昭が就任。


元亀元年(1570年)織田信長による再三に渡る上洛命令を無視した朝倉義景を討伐開始。

討伐最中に、同盟国浅井久政、長政父子が、古くからの友好関係であった朝倉方につき、挟撃状況も、秀吉の決死の殿により、脱出成功、急死に一生を得たそうな。

軍勢を立て直し、決選舞台は、姉川を挟み両陣営睨み合う・・・

有名な姉川の戦いの始まりである・・・

織田、徳川連合軍VS朝倉、浅井連合軍で、兵動員数では、織田、徳川連合軍が有利でしたが、川が血で赤く染まる程、大激戦で、織田徳川連合軍が勝利したのですが、辛勝であったと伝えられています。

この戦いを境に、世に云う、信長包囲網が少しずつ形成されていきます。

其の後、影響力が増してきた信長と将軍義昭との確執が生じ、将軍が御内書を各地へ送るなどして、本願寺、武田、毛利、上杉等と戦っていきます。

最大の窮地も、信長には、神が宿っているのか切り抜けていきます。

信長包囲網が第三次と続いていきますが、其の最中、天正10年(1582年)信長は、織田家家臣NO.2、明智光秀により、本能寺で襲撃に合い、自害してしまう。

覇王と云われた信長は、後、数年もあれば、天下布武、天下統一出来る勢いであったが、最後は呆気無いものであった・・・

もしも、生きていたらどうなっていたのか等、想像すると今の日本自体が違ってしまうのです。

あの日、あの時、こうなったから、川の流れの様に、悪しき時代も含めて、時代の流れで、今日の平和の日本があると考えると・・・

メチャ、おもろいよな〜^^

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