木地師発祥伝説と惟喬親王の歴史

時は平安時代前期、844年、文徳天皇の第一子として惟喬親王産まれる。

其の後、2人の子が産まれ、天皇は第一子惟喬親王を寵愛し皇位継承させる予定でいた。

間もなく、当時、太政大臣、藤原良房の娘、明子との間に第四子が産まれる。

皇太子には、良房の孫にあたる生まれたばかりの惟仁親王を、、と惟喬は、良房の圧力のもと継承する事がかなわなくなる。

良房にとって、第一子の惟喬は邪魔な存在・・・・

父、文徳天皇は、惟喬の身を案じて、何処か身を隠すよう促したと云う。

僅かの側近を連れ、京都大原、小野の里に隠棲する事になる。

其の後も文徳天皇は、惟喬が成人なるまでには、惟仁と惟喬を替えようとも企てていたが、反対派に屈服する事に。

そんな矢先、文徳天皇は、ある日、突然死する。

謎の死と云われ、29歳の若さであった。

此れによって、即位、決定的となった惟仁は僅か9歳、実質、藤原良房による摂政が始まったと云えよう・・・

良房による暗殺説とも云われる。

其の後、応天門の変がおこり、実際、犯人もうやむやと云われる此の事件、良房にとって、邪魔な存在が排除される事となり、藤原良房は権力を手中に収めた形となった。

ある推理の歴史本ではあるが、応天門の変の本当の犯人は、惟喬派一部の逆襲と、、

私も実は其れは事実かもなって、、

他の惟喬派が一気に動き出すクーデターを恐れた良房、それを表に出さなかった、、

伴善男父子を犯人にしたて流罪し幕を閉じたとの見方もできると同意見。

動機的に考えれば、応天門の変の犯人は、惟喬一派の仕業の可能性も秘めないのである。

其の後、惟喬を邪魔に思う良房は刺客を使わしたのか・・・

追討に逃れて、辿り着き隠れ棲んだとされる場所が、木地師の里、君ヶ畑である。

惟喬新王、君ケ畑への隠棲、木地師発祥の祖伝説です。

君ヶ畑、数キロ離れた多賀の方には、大君ヶ畑があるように、当時、君とは、大皇、皇帝を象徴する言葉であったらしい・・・

惟喬親王、所縁の地、何等かの関連性があった事が伺える。

その近くには、大皇器祖神社があり、こんな山奥に大仏がと驚くほど、、

立派な惟喬親王像と皇室の菊花紋までも付けられている。

又、大君ヶ畑と伊勢を繋ぐ峠、鞍掛峠は、惟喬親王が藤原良房追討から逃れる際、此の峠で鞍を外して御休憩された事から銘々されたらしい・・・

木地師発祥説については、惟喬が此の地に移り住み、村人にとけ込み、ある日巻物の紐をほどく事をヒントに開発した轆轤と、それによる木工細工作りを此の地に伝承した事、その木地師が全国へ・・・

代表的なのが、こけし、椀等がある・・・

それが木地師の祖と云われるに至る。

897年惟喬親王は病気のため、亡くなる。

伝説なので、何処までが本当なのかは分りませんが、惟喬新王の隠棲伝説は至る所にあるのが事実の様です。

謎、其れが面白いところです。

本当にあちら此方を転々として、隠棲生活していたのかどうか・・・

何故、神として崇められる程、人気があったのか等・・・・

墓も多数あり、何処で病没したかまでが伝説となっています。

私は惟喬親王は此の地で隠棲し生涯を終えたとみています、、

山奥だが墓までもある、此の地一帯、複数の神社で大事に祀られている。

それが、此処で隠棲した証、村人を大事にしたから、大事にされた証と云えないでしょうか・・・


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